あなたに飼われる猫になりたい

大きな声では言えない日常の本音を書きたいと思います。

心が泣きたい日には。

今日は風が強く寒い。

朝から頭がはっきりせず、自分の加齢の加速度が上がっていることを実感する。

ここ数年そう感じることが多くなり、

なるべく認知能力があるうちに身の回りの整理をしようと、

終活的な片付けを時間をみてやっている。

 

今日はカード類に手をつけた。

解約したもの、期限切れのもの、二度と利用しないもの等々。

(とっとと捨てればいいものをなぜか保管している時点でもう自分を疑う)

中には「そもそもなんで私はこのカードを持っているのだろう?」というものもある。

今日は勇気をふりしぼってコールセンターに問い合わせをした。

2件。

意外にもどちらの電話番号もわりとスムーズにオペレータに繋がった。

数年前に自動音声で延々と番号を選択させられ、長い時間待たされた挙げ句、

感じの悪い(しかも意地くその悪い)オペレータに何度も遭遇した。

それで私はコールセンター恐怖症になってしまったところがある。

しかし今日の担当者は二人ともとても親切で感じが良かった。

私が聞きたかったこと・・・どういう経緯でこのカードが発行されたのか、

どんなメリットがあるのか、今後どういう管理をすればいいかなど、

とてもわかりやすく、優しく丁寧に教えてくれた。

コールセンターの人、改心したのか・・・と思った。

ありがとうCS向上精神!

 

カード類のしかるべき処置が一段落したら、

なんだかすごく心が疲弊していることに気が付いた。

泣きたいような気分だった。

寒かったし、電話をかけるのが恐怖だったし、

一方でオペレータさんの優しさに触れられて嬉しかったのもあるのだろう。

 

疲れた心を癒したいと、私は録画しておいた映画を観ることにした。

『ボブという名の猫2 幸せのギフト』という2020年のイギリスの作品。

イギリスで2016年に公開された『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』の続編だ。

ミュージシャンを夢見る青年がクスリに溺れて廃人と化すが、

野良猫のボブと出会って更生して行く話。

続編では、ある年のクリスマスにボブを動物福祉局の役人に保護されてしまいそうになるが、

慈善団体のスタッフや獣医さん、コンビニの主人などに助けられ、

ボブとの絆を確かなものにするというストーリーになっていた。

実話を元にした映画だが、本当にこんなに心温まる出来事がこの世にあるのかと、

嬉しいような、疑わしいような、でも信じたいような、

ちょっと複雑な気持ちになった。

が、それでも今日問い合わせをしたコールセンターの人々も優しかったし、

人間まだまだ捨てたもんじゃないと思うことにした。

 

今日もネットの中ではいろんな人が他人のプライベートな部分について、

あーでもない、こーでもないと勝手にジャッジしている。

本当にうるさいと思う。

誰かの不正や不祥事や不幸をただ罵倒したりあざ笑ったりするのではなく、

なぜそうなってしまったのか、

その人は本当にそんな人なのか、

何か心がねじくれてしまうような悲しい境遇に晒されて、

心を病んでしまった結果ではないのか、

その人はちゃんと正気を保てているのだろうか、

何かのエラーで脳が暴走してしまい本人にも止められない精神状態だったのではないか・・・といろんな角度から考えて行けないものだろうか。

そして自分もいつかそっち側の人間になるかもしれないという可能性に気づけないものだろうか。

 

今日は本当に心が疲れている。

そして人の優しさが有り難かった。

私も出来るだけ人には優しく接したいと思った。

 

 

ファン失格。

昨日の夕方、羽生結弦が右足関節靭帯損傷によりNHK杯を欠場するというニュースが流れた。

あぁ、またやってしまったのか・・・。

ずっと恐れていたことが、また現実に。

なんと辛いことか。

どれほど無念に思っているだろう。

夢、目標の4A成功まであと少しだったろうに。

 

と気落ちする一方で、

私は正直少し安堵してしまった。

 

もう、これで怪我だけはしないようにと祈る心配はない。

悪いニュースに怯えながら過ごす日々は終わった、と。

あとは回復を願うポジティブな祈りだけすればいい、と。

 

私は元来ひどい心配性で、とにかく何にでも心配し怯えて生きて来た。

自分や家族の怪我、病気、地震や台風などの被災、認知症、仕事や人間関係のトラブル、相続トラブル・・・まだ何も起きていないのに、あたかもそれら全ての災難がいつか必ず自分に降りかかってくると思い込んでしまって、挙げ句の果てには、もう自分も親もきょうだいも、みんな事故か何かで死んでしまえばいいのに、遺産なんかトラブルの元凶だから全てなくなってしまえばいいのに、とさえ思ってしまう時があるくらいだ。

 

心配の種がなくなれば心穏やかに過ごせるのに、と。

だから今回羽生結弦が怪我をしたというのは、とてもとても辛く悲しい出来事なのに、自己中な私は「心配の種がひとつなくなった」と思ってしまったのだ。

本当に私はファン失格だ。

 

そしてふと思い出したことがある。

東京五輪の1年半前。

競泳の池江璃花子選手が白血病になった。

闘病後、当時を振り返るインタビューの中で彼女は「もうこれで金メダルを目指さなくていいと思ってしまった。プレッシャーから解放された」というようなことを語っていた。

もちろんそれが池江選手の本音の全てでないことはわかっているが、その言葉も偽らざる本音の一部だと思った。

 

羽生結弦が今回の怪我で「もう4A成功を目指さなくてよくなった。解放された」と思ったかどうかはもちろん知る由もないが(そして羽生に限ってはそんなことは頭の片隅にもよぎることはないと思うが)、少なくとも私は少し安堵してしまったのである。

 

もっと正直なことを言えば、平昌五輪が終わったあと羽生が「4Aの夢を叶えるまでもうちょっとだけ頑張ります」と現役続行を宣言したとき、あぁ、また苦しい日々を見守るのか、応援してるだけの身でもしんどいなと思ってしまった。

練習や試合をかげながら応援しているだけのファンが何がしんどいのか?と我ながら思ったが、やはり平昌五輪まで怪我をしないかと毎日心配だったし(実際怪我をしてしまって胸が潰れるほど苦しかったし)、ネットの中には悪質アンチの罵詈雑言が蠢いていたし、ファンも勝手な憶測でジャッジや他選手や他選手のファンをめちゃくちゃ叩いていたし、とにかく平昌五輪まで胸が痛い毎日だったのだ。これがまた数年続くのかと思ったら酷くしんどかった。

だったらもうファンなんか辞めて、試合もネットも見ない生活をすればいいじゃないか、その方が精神衛生上どれほど健全か、とそんなことは誰に言われなくてもわかっている。

が、惚れた弱みなのか、私はなんだかんだ言いながら完全に離れることが出来なかった。(誰かを好きになるってそういうことだと思う。辛くしんどくてもついて行きたくなるみたいな)

すでにファンを失格しているのにファンを辞められない。おかしな話だ。

 

もうひとつ私は、自分はもともとファン失格なんだろうなと思っていることがある。

それは他人の不幸を(表面的には心配しているようなことを言っていても実際には)心の底でしめしめと思ってしまうことである。

羽生結弦自身は他人の不幸を願ったり、しめた!と思ったり、これで自分が上にいけると安心したりするような人間ではない(たぶん)。

そんな聖人君子のような人のファンとしては、他の選手が失敗したり、プログラムや衣装への評価がよくなかったりしても、表に出してほくそ笑んではいけないとはわかっている。

けれど私は心の中では「他の奴らはもっと落ちて行け」と願ってしまうことがしばしばある。

これはフィギュアに対してそう思ってしまうだけではなく、子供の頃から他の子がテストで悪い点数を取ったり、部活でミスしたりしたときにすでに感じて来たことだ。

なんと醜い心の持ち主なのか。

アンチが思っているのとまるで同じだ。

我ながら自分が気持ち悪い。

(と言いつつ、そういう本音をここに書いて自分を許してもらおうと思っているだけの根っからの醜い人間であることもわかっている)

 

 

ダメな自分の言い訳はこれくらいにしよう。

 

羽生結弦選手がゆっくり療養できますように。

いつか夢を叶えますように。

 

夫のこだわりに笑えたw

昨年から今年にかけて、私はテレビのバラエティ番組などでスシ○ーの特集を何度も目にした。

それくらい日本では現在○シロー愛好家が爆発的に増えているらしい。

それを裏付けるように、うちの近所のスシ○ーはいつ見ても行列が出来ている。

ス○ロー特集のひとつはバンコク店のオープンドキュメントだったので海外でもスシ○ーは人気なのだろう。

 

 

先週の土曜の昼に、

夫に「今日はお寿司が食べたい」と言うと、

「じゃあ3階に行く?」と言った。

3階というのは、最寄りの駅に隣接しているショッピングモールの3階にスシ○ーがあるので、「3階に行く?」というのは「○シローに行こうか?」という意味である。

 

私たちはこれまで二度ほどス○ローに行ったことがある。

 

私の中では、“○シローは不味くはないが、積極的に「また行こう!」とは思わない回転すし屋”という位置づけになっている。

寿司職人がちゃんとシャリを握っていない“握り”なんて食べた気がしないのだ。

夫はそれを知っていて、私が「寿司を食べたい」と言うたびに「3階に行こう」と言う。私が嫌がるのが面白くていつも「3階に行こう」と言うのだ。

(性格が悪いなw)

 

私は若い頃は、

「イオ○のフードコートになんて絶対に行かない!」とか、

「ユニク○のゆるい服を部屋着になんて絶対にしない!」とか、

「黄色いナンバープレートの軽自動車になんか絶対に乗らない!」などと言っていた。

なんと傲慢だったことか!と今では反省しているが(なぜなら、かなり早い段階で全ての誓いを破ってしまったので)、

しかし現在私も夫ももういい年になり、そこそこ貯えもあり、コロナ禍ということもあって、自分たちの人生がいつどうなるかわからないこのご時世に、何が悲しくてスシ○ーに行かなければならないのか?と思う。

(私の方が性格悪いな)

 

けれど先週の土曜日はあまりにもしつこく夫が「3階に行こう」と言うので、しぶしぶ「わかった。でも今の時間だともうだいぶ並んでると思うよ」と言ったら、急に「冗談だよ!行かないよ!」とのたまった。

 

「は?」やっぱり私をからかっていただけか・・・。

夫に「並ぶのいやなの?」と聞くと、

「あの行列の中に自分が入るのはなんだか流行りに乗っかる一般庶民になったみたいでいやだ」と・・・。

 

その感覚わかる・・・ような気がする・・・。

好きとか美味しいとかではない、ただ流行ってるから並んでます、みたいなのが生理的にだめなのだろう。

わかる・・・気がする・・・。

そして笑えるww

 

で、結局別の回転すし屋に行ったのだが、そこはちゃんと職人(たぶんちゃんとした寿司職人)が目の前で握ってくれるし、運営元が蟹の外食チェーンなのでネタも(たぶん)ちゃんとしていて私たちの気に入っている。

 

が、夫も私もその店にはひとつだけ困っていることがある。

タッチパネルの注文タブレットのような電子システムが導入されていないので、食べたい品をタイミングを見計らって、普段は出さないような少々大きめの声でカウンターの中の店員さんに注文しなければならないのだ。

それがすごくストレスになる。

早く電子システムを導入して欲しい。

 

夫がスシ○ーに行きたいようなことを言うのは、私をからかって楽しんでいるだけじゃなく、本当はストレスなく自由に寿司を注文したいからなのかもしれないなと思ったら、なんだか申し訳ないような気がして来た。

CMは仕事と割り切っても・・・。

羽生結弦アメブロで久しぶりに声のブログを更新している。

先週の水曜日、9月15日の記事タイトルは『お久しぶりです!』だった。

 

しかし、私はこのタイトルを見て、

「そんなに久しぶりな気がしない・・・なぜだ???」と思ってしまった。

 

きっと、それは7月と8月にたて続けに【みやびやかなひと刻】という雪肌精のCMが配信されたばかりで、羽生結弦の美声に酔いしれるファンが多数発生していたのを知っていたからだろうと思う。

 

【みやびやかなひと刻】はもちろんCMなので、雪肌精という商品を通して心とお肌のケアを紹介するという内容で、「あ~仕事してるな~」としか思わなかったが、アメブロの声のブログでは「みなさんへ僕の日常をお送りできればと思います」と言いながら、結局こちらも雪肌精の紹介がメインの内容になりそうだ。(少なくとも9月22日に更新された回ではそうだった)

 

どこが「僕の日常」なのだろう?と思う。

正直がっかりした。

あまりにもビジネスライクだ。

(仕事なのだから当然なのだが)

 

それと、雪肌精の仕事は、チョコやガムや布団や冷凍食品とは違って、(ほぼ女性限定の)化粧品を売る商売なので、「僕も使っているのですが、雪肌精クリアウェルネスのピュアコンクは~」などともっともらしいことを言っているが、「ホントに使ってるの?無理してない?」などと思ってしまう。

(大きなお世話だな)

 

そして一番言いたいのは、服装がダサイこと!(笑)

ダボダボのシャツとパンツは似合わない!!(笑)

羽生結弦のいいところは、均整の取れたスタイルなのだから、そのラインを隠すような服装は絶対にダメだと私は思っている。

 

もっと言うと、最近の羽生は髪型もおかしい!(笑)

前髪をビッチリ8:2に分けたり、テカリ気味なオールバックにしたり(特にシチズン)、試合の時でもセットしてるのに毛先がバラバラだったり、自分の魅力を最大限アピールすることを放棄しているように見えてしまう(時がある)。

今回の雪肌精の前髪はあまりにももっさりかぶっている感じで本当に残念でしかたない。

美しさを重要視する競技のトップスターなのだから、細部にまで拘って欲しいのだ(などと言うのはファンの勝手な戯言でしかないのだが)

 

仕事には全力投球できない気分の時もあるのかもしれないが、あるいは与えられた服装と髪型に何の疑問も抱かず、抵抗もせず従順になるしかない時もあるのかもしれないが、もっと美しい自分を自覚して欲しい。

(やはり大きなお世話か)

 

 

余談だが、羽生ファンの中にジャパンオープンJTBツアーの金額が高過ぎると文句を言っている人がいるが、Premium席/23,000円×3公演とホテル宿泊代、それに手数料を考えたら10万円くらい妥当な料金設定ではないだろうかと思ってしまう。

例えがうまくないかもしれないが、ハイシーズンの海外旅行など通常時の2~3倍になることを考えると、旅行会社ならそういう感覚でぼったくることなんかなんとも思っていない気さえする。

(だいたいそういう文句を言っているファンは概ね“行かないファン”のように思う。感染防止対策や試合のエントリー、他カテゴリーの得点などにも文句ばかりを言っている人がずーっといるが、たぶん同種の人たちなんだろうと感じる。ただ私自身も昨年までは似たようなもんだったのであまりネチネチ言ってばかりもいられないのだが)

不幸な夫婦でいるより幸せなシングルマザー

夫の友人(会社の同期)の話。

30代の娘が数年前に離婚し、子供を連れて実家に戻って来たそうだ。

離婚理由は聞いていないのでわからないが、子供がいるのに離婚したのだから相当な修羅場を経ての結論だったと想像する。

そこそこ田舎の世間の目がまだまだ気になる地域に住んでいるので、あまり体裁のいい話ではないが、実は友人夫婦、つまり離婚して出戻って来た娘の両親はウェルカムな態度なのだという。

母親の方は、シングルマザーになって地元で働き始めた娘の代わりに孫の面倒を毎日楽しく見ており、父親の方は、税金対策と称して娘と孫のために自宅敷地内に家を建て、娘に賃貸するという形で居住問題を全面的にサポートしている。

両親と娘と孫、楽しい毎日なのだそうだ(今のところ)。

孫にとっては、本当の父親と触れ合うことなく成長して行くのは多少の淋しさや、情緒面でのマイナスはあるかもしれないが、それ以外は誰にとっても損のない、ほぼほぼ理想の家族の形を成しているのではないかと思う。

少なくとも両親のいがみあう姿を見ずに暮らして行けるのはよかったのではないだろうか。実際、それを離婚のポイントにしている人はけっこうたくさんいると感じる。

 

私が「離婚したい」と親に切り出した時は、とにかく親は大反対で「子供が出来れば男は変わる。お前が我慢しろ。それで全て丸く収まる」の一点張りだった。

最終的には私は親の意見は無視して、夫とふたりで話し合って離婚を決めてしまった。実家にも戻らなかった。私が離婚したことを知った両親はたいそうがっかりしたようだった、と後で姉に聞いた。

私に子供のひとりでもいれば、同期の家族みたいに状況はまた違ったのかもしれない、と今になって思う。

 

私の幼馴染で、地方都市のまあまあ名家の出のお嬢様が、20年程前に医者と不倫の末、男の子を産み、はじめは激怒していた両親も、孫の顔を見た途端てのひらを返したように娘と孫の理解者となったという話もある。

私の幼馴染は結婚願望が皆無だったため、はじめからシングルマザーを選んだが、フリーランスでメディアの仕事をしていて収入はなんとかなっている。

相手の男性は妻との間に子供が3人いるが、医者なので養育費を求めれば十分応えてくれたであろうが、彼女はそういう関係を一切好まず、しかも息子を産んでしばらくしてからその不倫相手への愛情が完全に冷めてしまったので、息子はその男に会わせるが、自分はほとんど会っていないと言っていた。息子の良き父親であって欲しいとは思っているそうだ。

 

家族の形も、幸せの形も、本当に多種多様だと実感する。

なるべく気の合う人間とだけ暮らして行けたら、それが一番いいのかもしれない。

 

24時間テレビももうダメだ・・・。

今年も『24時間テレビ』に羽生結弦が出演するというので、昨日8月22日(日)の13時くらいからテレビのチャンネルを合わせて待機した。

 

羽生が登場するのはだいたい13時45分頃という予告があったので、そんなに早くからスタンバイする必要はなかったのだが、生放送は何があるかわからないし、今年の24時間テレビはどんな企画になっているのかも把握したくて、早めに番組を見始めた。

他のことをやりながら流し見をしていたので、実際のところどんな出し物をしていたのか正確には覚えていないのだが、ヒロミがどこかの施設をリフォームしたり、芸能人が次々と出て来て“花”にちなんだ歌を歌ったりしていた。

 

何もかもが「いつもの24時間テレビだな」と思った。

特に目新しい画期的な演出はないように感じた。

(と言えるほど毎年ちゃんと見ているわけではないが・・・。違うのは、ひとりの勇者が24時間ぶっ通しでマラソンをしていなかったことくらいか)

 

と、大して特別な映像を見たわけでもないのに、歌のメドレーを見終わる頃に私の体に異変が起きた。

どーにも全身がムズムズし、喉の奥がウゲウゲし、胃はムカムカ、肌はゾワゾワ、たまらない不快感に襲われてしまったのだ。吐きそうな嫌悪感と言ってもいい。

一体私の体はどうなってしまったのだろう・・・。

たぶん私は年齢的に女性ホルモンが枯渇し、温かい母性本能というか、寛容な人間性を完全に失ってしまったのだろうと思う。

 

ここ1、2年、若い男性芸能人を見ると気持ち悪くなり受け付けなくなってきていたので、その末期症状だと言えるのかもしれない。

とにかくキンプリの皆さんやナントカ坂の女性アイドル、そして小さい女の子が(聴くに耐えない下手くそな)歌を歌う姿に虫唾が走ってしまったのだ。

 

障害のある人たちや、自然災害やコロナの被害に遭われた人たちに寄り添う姿勢は大切だと思う。医療従事者に感謝の気持ちをあらわし、励ますことも善い行いだと思う。

けれど、それが普段はチャラチャラしているように見えるアイドルがその日だけはしおらしく真っ当なことを言ったり、世の中のことはおろか、自分が何のために歌っているのかもわかってなさそうな幼児が、スタジオの脇にいる母親?のサインをチラチラ見ながら歌う姿だったりすると、心底興醒めする。気持ち悪い。

 

いや、そういう番組なんだからしかたないのはわかる。

国民にウケの良さそうな人間を集めて、金を集める。それがこの番組の趣旨なのだから、たとえ更年期の私の気に入らない光景を延々見せられたからと言って文句を言える筋合いではない。

 

ただ本当に勝手なことを言って申し訳ないのだが、せっかくの羽生結弦の美しい舞いを堪能するには私の体調は最悪になってしまったのだ。

羽生はこの10年、ずっと変わらず弱者に寄り添う生き方をしてきた。私生活では派手なことは好まず、自分の目指すスケートに真摯に向き合い、被災地や仙台のリンクに寄付を惜しまず続け、まさに『24時間テレビ』の趣旨にぴったりの活動をしている人間だ。

その羽生の想いのこもった滑りで心が浄化されるだろうと楽しみに待っていたのに、羽生をもってしても、その直前に受けた衝撃による不快感を癒すことはできなかったのだ。

 

(いや、全ては私のホルモンバランスのせいだろう。もっと若く、受容量が私にあれば問題なく楽しめる番組だったに違いない・・・ってこともないか。視聴率の低下ひとつをとっても、スポーツと福祉とエンタメをミックスしてお金を集めるのももう限界なんじゃないだろうかと、勝手ながら思ってしまった。だから本当の意味でチャリティ精神のある人はもうあの番組には出なくてもいいのではないだろうか)

私の中のネイサンと宇野昌磨

東京五輪が盛り上がっている。

開催直前にこれでもか!というほど問題が噴出し、開会式の担当者が辞任したり、解任されたり、もうめちゃくちゃだった。

(私は東京開催が決定した瞬間のガッツポーズで大興奮している滝川クリステルさんや竹田会長たちのあのシーンには確かに気持ち悪さを感じていた)

 

それでもいざ競技が始まったら、日本選手のメダルラッシュで、メディアも国民も大盛り上がりだ。

「こんなコロナ禍でオリンピックなんてやってる場合じゃない!」と言ってた人たちの中には今でも「今からでも中止にするべき!」と主張している人もいるようだが、なんとなく「始まってしまったからには選手を応援する!」と多くの人が手のひらを返したような空気を感じる。

 

それほどオリンピックとは絶対的な圧倒的な価値のあるイベントなのだろう。

 

平昌五輪の際、宇野昌磨は「特別な緊張感はなかった。他の試合と同じだと思った。(オリンピックのメダルだからといってことさら)メダルを大切に扱おうとは思っていない。日本には(全日本という)もっと緊張する大会がある」というようなことを言っていた。

 

ネイサンは平昌五輪後イエール大学に入り、「世の中にはフィギュアスケートよりも大切なことがあると気付いた。オリンピックだけが人生じゃない」というようなことを話していた。

 

私はこれら発言に理解できるようなできないような、微妙な気持ちでいる。

私はただの一般人で、五輪はただ見ているだけの部外者なので、「そうだよねー。五輪以外にも大切な試合はあるよねー。それに人生丸ごとスポーツに懸けちゃって、目標としていたメダルが獲れなかったらそこから先の人生どうやって生きて行くの?他の道でも生きていける学歴や専門知識を付けておくのも大切だよねー」と思ってしまう。

 

競技によっては、例えばサッカーやゴルフ、野球やテニスなどは、五輪が最高峰の大会ではない。

スポーツに人生を懸ける選手の中でも目指す頂点が違うというのも妙な話だ。

 

そして今回の五輪で改めてよくわかったのは、五輪開催で一番重要視されるのは、金儲けをしたい大人たちの都合のいいように事態が転がっていくことだということ。

(これは他人事のように言ってはいけないことだとわかっている。自分自身や、自分の、そして皆さんの配偶者や家族、友人、知人がスポンサー企業と縁があるなら全くの他人事の話ではないからだ)

 

そう考えると、純粋に五輪のメダルを目指して血の滲むような練習を日々積み重ねている選手たちに訊いてみたくなる。

「どうしてそこまで頑張るの?そんなに苦しい努力をして何になるの?勝てなかったらそこで人生終了と思ってしまうかもしれない結末になったらどうするの?金メダルを獲れるのはほんの一握りの人だよ。4年に一度しかチャンスがないんだよ。しかも金に目のくらんだ大人たちにあなたたちの無償の努力を搾取されているんだよ。それでもオリンピックにそこまでの価値を見出すの?」と。

 

「五輪は特別な舞台。そこで勝ってこそ本物の王者」というような意見をよく目にする。

私もずっとそう思って来た。

しかし今回、金メダルの有力候補(大坂なおみ内村航平瀬戸大也張本智和桃田賢斗など)が次々と敗退していく様を見て、果たして彼らは弱かったのか?と疑問が湧く。

彼らは今回の五輪こそ勝てなかったが(内村航平はもはや別格だが)、他の大きな大会でたくさん勝って来た実績がある。たとえば五輪と五輪の間の世界選手権で三連覇をしてきて、五輪だけ勝てなかったとしても、その選手が強いことには変わりはないはずだ(パトリック・チャンもネイサン・チェンも)。

 

「五輪だけが人生じゃない」

「五輪だけが特別価値のある大会ではない」

は正しいのかもしれない。

 

2年前の24時間テレビの頃だったか、羽生結弦はかつてのコーチに「つらいことたくさんあったね。今も・・・」と声をかけられ、「はい・・・」と涙目で答えていた。

五輪二連覇しても泣けるほどつらいことがあるのか、と切なくなった。いや二連覇したからこそ感じる苦しみなのかもしれないが。

二連覇直後は「幸せを掴みました」と言えても、そこで人生が完結するわけではないことはチャンピオンにとっても同じこと。五輪で金メダルを獲っても未来永劫の幸せが保証されるわけではないのだと、その時の羽生の様子から私は確信した。

 

アメリカの体操女王であるシモーネ・バイルズ選手はメンタルがやられ、東京五輪団体戦を途中棄権し、個人総合も出場しないと発表したそうである。彼女はもう強いことを十分証明してきたし、「五輪だけが人生じゃない」とも言っていたのでそれでいいなと思う。本当に大切なのは心と体が健康であることなのだから。

(羽生もかつて「週刊誌の問題とかで何度も死のうとした」と告白したことがある。世界規模で注目される人間はメンタルが崩壊することがあるのだ。王者たちがそこまで追い込まれてもなお五輪の頂点にこだわる人がいるほどの価値って何だろう?)

 

世界の頂点を目指したこともない普通の人間である私にとっては、羽生の偉業を称えると同時に、五輪を特別視しない、重要視しないネイサンや宇野昌磨にも少し寄り添ってしまう今日この頃である。

(ただし、ネイサンも宇野も世界トップのアスリートなので、自分にはたくさんのファンの期待とスポンサーのお金が注ぎ込まれていることはやはり現段階ではもっと自覚するべきなのでは?とも思う。もうしばらく五輪狂想曲は続くと思うので、「金メダルを獲る!」という意気込みで臨んだ方が多くの人が納得するような気がする)

 

 

話は逸れるが、ネイサンがLGBTQ+に関する差別的発言をした件について。

彼を擁護するわけではないが、小さい頃から中国移民の子として、そして現在はフェミニンなスポーツという認識のフィギュアスケートをする男性アスリートとして(散々差別的な扱いをされてきたと想像できるので)、「もうこれ以上差別的な目で見られたくない!」と思ったのだとしたら、「自分はストレートだ。フィギュアは女性的なスポーツとしての人気だけでなく、一般人気を得るためにもっとカジュアルなジャンルの曲や踊りを取り入れるべき」とアメリカのマッチョイズムに迎合するような発言が出てしまってもしかたがないなと思う部分がある。あんないかにも北米人の髭面のオッサンたちに「なんでアイスホッケーをしないの?」などと面と向かって訊かれたら、「ゲイを疑われるような発言は絶対に避けなければならない。そんなことを言った日にはまたどんな差別を受けるかわかったもんじゃない!」とネイサンが思ったとしても不思議ではない。「フィギュアは個性を自由に発揮できる美しいスポーツなんです。そこが好きなんです。(僕は男性らしくあろうと衣装もプログラムも簡素だから人気がないですけど)」などと中途半端なことは怖くて言えなかっただろうと勝手に想像する。

(ある意味マイノリティとしてアメリカで生きている)ネイサンには本当に同情してしまう部分がけっこうあるなと実は思っていて、自分の人生観に合わないんだったらフィギュア辞めてもいいんだよとさえ思う時があるのだ。