ここのところ、東京オリンピックの代表選考会がいくつも開催されている。
今日も陸上の大会があったようだ。
あまり興味がないのでチラッとしか見ていない。
男子の100mで優勝したのは多田修平選手。
10秒15だったそうだ。
彼より(たぶん)知名度の高い桐生祥秀選手やサニブラウン・ハキーム選手は5着と6着で代表を逃したらしい。
桐生選手は10秒28、サニブラウン選手は10秒29。
優勝者と彼らとでは、「0.01秒の差!惜しい!」と言うほどの僅差ではないが、ちょっとした体調や精神状態や運で結果は入れ替わりそうな戦いだと思う。
※今日の決勝で、もうひとり代表内定を掴み取ったのは、10秒27で3着の山縣亮太選手だったそうだ。桐生選手があと0.01~0.02秒早ければ結果は違っていたのだろうか?選考基準がよくわかってないので曖昧ですみません。
陸上でも水泳でも、もちろん他の競技でも、いつも思うが、そんな僅かな差を競うことにどれほどの意味があるのだろう。
いや、その僅かな差が、将来大きな差に繋がるから皆必死なのだ。それはわかる。
オリンピックに出られるかどうか。
オリンピックでメダルが獲れるかどうか。
メダルの色が金か銀か銅か・・・そこには天と地ほどの違いがあるのだ、彼らには。
(彼ら選手自身だけではなく、家族やスポンサーやファンにも関わってくる)
オリンピックの金メダルと銀メダルの間には、何をしても埋められない深くて長くて暗い溝があるという人もいる。(溝というか、川というか、物心両面における差があるらしい)
それでもやはり私には疑問だ。
たった0.01秒の差、0.01点の差、たった1cmの差。
その違いに何の意味があるのだろう?
そこには実力の差はほぼ無い。
あるとしたら運の良さだけのように思う。
そのとびきりの運の良さを掴むために、選手たちは日々血の滲むような努力をしているのか。
世界の頂点を目指すとはそういうことか。
それは頭ではわかっているが、普通の平穏な暮らしだけを望んでいる私からすると、ただただ虚しいのだ。
そこに幸せはあるのだろうか。
満足はあるのだろうか。
(本当に、誰かの、何かの、ためになっているのだろうか)
と、こういう競技会を見るたびに思ってしまう。