30年くらい前、私が住んでいた町から車で10分くらいの所にスーパー銭湯ができた。そこにはサウナやミストサウナ、露天風呂、ジャグジーなどがひと通り備わっており、大人ひとり400円くらいだったと記憶している。
私は週に2~3回その銭湯に通った。そこで露天風呂に浸かり、打たせ湯に当たり、サウナに耐え、ひと通り湯めぐりを堪能すると、いわゆる“整う”感覚を得ることが出来た(ように思う)。
今でこそ“サウナで整う”は常識の表現になっているが、当時は誰もそんなことは言っていなかった。しかし今振り返ってみると、あれは心と体を整わせるひとつの作業だったのだとわかる。
仕事や夫婦関係のトラブルを抱え、ストレスまみれの日常を送っていた私が一時それらの疲弊から解き放たれる感覚。湯に浸かり、サウナで蒸され、汗をかき、冷たい水分を補給し、家に帰ってベッドに入る。そうすると「さあ、明日もまた頑張っていくぞ」という気合いが入る。
“整う”とは、そういうことなのだろう。日々のクサクサした気分と疲れを体の中から流し出して、さあ、心をリセットしたぞ、また頑張るぞ、と気合いを入れる。実際には、ただ血流が良くなって、少し呼吸も落ち着いて、自律神経に何らかの良い作用が少しあるだけなのかもしれないが、「サウナって整うよねえ」などと皆が口々に言えば、「そうそう心も体もシャンとして、なんか頑張れるよねえ」という気になる。サウナすごいな!
と思いつつ、実はあの30年前に少しスーパー銭湯に通った時以降、私はサウナに入ったことがない。確かに当時、心身のリフレッシュにはなっていただろうが、心臓への負担もかなり自覚していた。もっと言うとサウナの後の水風呂などは冷た過ぎてじぃーっと入っていらなかった。それを乗り越えての“整う”だったが、やはり体は正直、私はサウナに関してはそこまでの執着はないのだ。
だから今、巷でさかんに「サウナは整う」ともてはやされている状況を見ると、本当にみんなそう思ってる?周りがそう言うからそんな気がしているだけじゃない?無理してない?ただ流行りに乗っかっているだけじゃない?などと冷めた目で見てしまう。
まあ、若い人は心臓もプリプリに元気だろうから無理なくサウナで整えるのかもしれない。存分に楽しめばいい。
還暦間近の私が見つけた今の自分に合った整い方は、掃除である。元々私は家事の中では掃除が一番好きだ。好きというか、好きな家事などないので、最も嫌いではないというところだが、とにかく掃除をもくもくとこなし、家磨きに没頭、集中すると、掃除が終了する頃、頭の中の憂さが少し消えている。体も不思議と軽くなったような気になるし、さあ!次のことに取り組もう!と気合いが入るのだ。
実際に“動禅”という、掃除や作務、歩行など体を動かしながら行う禅の修行や実践を指す言葉もあるそうだ。それを聞いた時、なるほどと思った。ただ座禅を組んで瞑想するだけが心の乱れを整え、頭を整理する方法というわけではないのだ。サウナも掃除も、座禅と同様の効果があるスイッチということだろう。
余談だが、2年前まではタバコを吸うのも私にとっては整うきっかけのひとつだった。しかしコロナに罹患して以来、もう完全に体がタバコを拒否するようになったので、今はまさに健康的な掃除や散歩やラジオ体操などが整う装置になっている。若い頃から何度か禁煙にチャレンジしたこともあったが、ただツライだけで一度も禁煙に成功したことはなかった。それがコロナでいとも簡単にタバコをやめられたのは自分でも驚きだった。それほどまでに私の肺や気管支はボロボロだったということなのだろうが、人間は限界に達しないと悪癖はやめられないのかもしれないと実感した。クスリやめますか?それとも人間やめますか?の世界なのだろう。