あなたに飼われる猫になりたい

大きな声では言えない日常の本音を書きたいと思います。

ファン失格。

昨日の夕方、羽生結弦が右足関節靭帯損傷によりNHK杯を欠場するというニュースが流れた。

あぁ、またやってしまったのか・・・。

ずっと恐れていたことが、また現実に。

なんと辛いことか。

どれほど無念に思っているだろう。

夢、目標の4A成功まであと少しだったろうに。

 

と気落ちする一方で、

私は正直少し安堵してしまった。

 

もう、これで怪我だけはしないようにと祈る心配はない。

悪いニュースに怯えながら過ごす日々は終わった、と。

あとは回復を願うポジティブな祈りだけすればいい、と。

 

私は元来ひどい心配性で、とにかく何にでも心配し怯えて生きて来た。

自分や家族の怪我、病気、地震や台風などの被災、認知症、仕事や人間関係のトラブル、相続トラブル・・・まだ何も起きていないのに、あたかもそれら全ての災難がいつか必ず自分に降りかかってくると思い込んでしまって、挙げ句の果てには、もう自分も親もきょうだいも、みんな事故か何かで死んでしまえばいいのに、遺産なんかトラブルの元凶だから全てなくなってしまえばいいのに、とさえ思ってしまう時があるくらいだ。

 

心配の種がなくなれば心穏やかに過ごせるのに、と。

だから今回羽生結弦が怪我をしたというのは、とてもとても辛く悲しい出来事なのに、自己中な私は「心配の種がひとつなくなった」と思ってしまったのだ。

本当に私はファン失格だ。

 

そしてふと思い出したことがある。

東京五輪の1年半前。

競泳の池江璃花子選手が白血病になった。

闘病後、当時を振り返るインタビューの中で彼女は「もうこれで金メダルを目指さなくていいと思ってしまった。プレッシャーから解放された」というようなことを語っていた。

もちろんそれが池江選手の本音の全てでないことはわかっているが、その言葉も偽らざる本音の一部だと思った。

 

羽生結弦が今回の怪我で「もう4A成功を目指さなくてよくなった。解放された」と思ったかどうかはもちろん知る由もないが(そして羽生に限ってはそんなことは頭の片隅にもよぎることはないと思うが)、少なくとも私は少し安堵してしまったのである。

 

もっと正直なことを言えば、平昌五輪が終わったあと羽生が「4Aの夢を叶えるまでもうちょっとだけ頑張ります」と現役続行を宣言したとき、あぁ、また苦しい日々を見守るのか、応援してるだけの身でもしんどいなと思ってしまった。

練習や試合をかげながら応援しているだけのファンが何がしんどいのか?と我ながら思ったが、やはり平昌五輪まで怪我をしないかと毎日心配だったし(実際怪我をしてしまって胸が潰れるほど苦しかったし)、ネットの中には悪質アンチの罵詈雑言が蠢いていたし、ファンも勝手な憶測でジャッジや他選手や他選手のファンをめちゃくちゃ叩いていたし、とにかく平昌五輪まで胸が痛い毎日だったのだ。これがまた数年続くのかと思ったら酷くしんどかった。

だったらもうファンなんか辞めて、試合もネットも見ない生活をすればいいじゃないか、その方が精神衛生上どれほど健全か、とそんなことは誰に言われなくてもわかっている。

が、惚れた弱みなのか、私はなんだかんだ言いながら完全に離れることが出来なかった。(誰かを好きになるってそういうことだと思う。辛くしんどくてもついて行きたくなるみたいな)

すでにファンを失格しているのにファンを辞められない。おかしな話だ。

 

もうひとつ私は、自分はもともとファン失格なんだろうなと思っていることがある。

それは他人の不幸を(表面的には心配しているようなことを言っていても実際には)心の底でしめしめと思ってしまうことである。

羽生結弦自身は他人の不幸を願ったり、しめた!と思ったり、これで自分が上にいけると安心したりするような人間ではない(たぶん)。

そんな聖人君子のような人のファンとしては、他の選手が失敗したり、プログラムや衣装への評価がよくなかったりしても、表に出してほくそ笑んではいけないとはわかっている。

けれど私は心の中では「他の奴らはもっと落ちて行け」と願ってしまうことがしばしばある。

これはフィギュアに対してそう思ってしまうだけではなく、子供の頃から他の子がテストで悪い点数を取ったり、部活でミスしたりしたときにすでに感じて来たことだ。

なんと醜い心の持ち主なのか。

アンチが思っているのとまるで同じだ。

我ながら自分が気持ち悪い。

(と言いつつ、そういう本音をここに書いて自分を許してもらおうと思っているだけの根っからの醜い人間であることもわかっている)

 

 

ダメな自分の言い訳はこれくらいにしよう。

 

羽生結弦選手がゆっくり療養できますように。

いつか夢を叶えますように。