あなたに飼われる猫になりたい

大きな声では言えない日常の本音を書きたいと思います。

私の中のネイサンと宇野昌磨

東京五輪が盛り上がっている。

開催直前にこれでもか!というほど問題が噴出し、開会式の担当者が辞任したり、解任されたり、もうめちゃくちゃだった。

(私は東京開催が決定した瞬間のガッツポーズで大興奮している滝川クリステルさんや竹田会長たちのあのシーンには確かに気持ち悪さを感じていた)

 

それでもいざ競技が始まったら、日本選手のメダルラッシュで、メディアも国民も大盛り上がりだ。

「こんなコロナ禍でオリンピックなんてやってる場合じゃない!」と言ってた人たちの中には今でも「今からでも中止にするべき!」と主張している人もいるようだが、なんとなく「始まってしまったからには選手を応援する!」と多くの人が手のひらを返したような空気を感じる。

 

それほどオリンピックとは絶対的な圧倒的な価値のあるイベントなのだろう。

 

平昌五輪の際、宇野昌磨は「特別な緊張感はなかった。他の試合と同じだと思った。(オリンピックのメダルだからといってことさら)メダルを大切に扱おうとは思っていない。日本には(全日本という)もっと緊張する大会がある」というようなことを言っていた。

 

ネイサンは平昌五輪後イエール大学に入り、「世の中にはフィギュアスケートよりも大切なことがあると気付いた。オリンピックだけが人生じゃない」というようなことを話していた。

 

私はこれら発言に理解できるようなできないような、微妙な気持ちでいる。

私はただの一般人で、五輪はただ見ているだけの部外者なので、「そうだよねー。五輪以外にも大切な試合はあるよねー。それに人生丸ごとスポーツに懸けちゃって、目標としていたメダルが獲れなかったらそこから先の人生どうやって生きて行くの?他の道でも生きていける学歴や専門知識を付けておくのも大切だよねー」と思ってしまう。

 

競技によっては、例えばサッカーやゴルフ、野球やテニスなどは、五輪が最高峰の大会ではない。

スポーツに人生を懸ける選手の中でも目指す頂点が違うというのも妙な話だ。

 

そして今回の五輪で改めてよくわかったのは、五輪開催で一番重要視されるのは、金儲けをしたい大人たちの都合のいいように事態が転がっていくことだということ。

(これは他人事のように言ってはいけないことだとわかっている。自分自身や、自分の、そして皆さんの配偶者や家族、友人、知人がスポンサー企業と縁があるなら全くの他人事の話ではないからだ)

 

そう考えると、純粋に五輪のメダルを目指して血の滲むような練習を日々積み重ねている選手たちに訊いてみたくなる。

「どうしてそこまで頑張るの?そんなに苦しい努力をして何になるの?勝てなかったらそこで人生終了と思ってしまうかもしれない結末になったらどうするの?金メダルを獲れるのはほんの一握りの人だよ。4年に一度しかチャンスがないんだよ。しかも金に目のくらんだ大人たちにあなたたちの無償の努力を搾取されているんだよ。それでもオリンピックにそこまでの価値を見出すの?」と。

 

「五輪は特別な舞台。そこで勝ってこそ本物の王者」というような意見をよく目にする。

私もずっとそう思って来た。

しかし今回、金メダルの有力候補(大坂なおみ内村航平瀬戸大也張本智和桃田賢斗など)が次々と敗退していく様を見て、果たして彼らは弱かったのか?と疑問が湧く。

彼らは今回の五輪こそ勝てなかったが(内村航平はもはや別格だが)、他の大きな大会でたくさん勝って来た実績がある。たとえば五輪と五輪の間の世界選手権で三連覇をしてきて、五輪だけ勝てなかったとしても、その選手が強いことには変わりはないはずだ(パトリック・チャンもネイサン・チェンも)。

 

「五輪だけが人生じゃない」

「五輪だけが特別価値のある大会ではない」

は正しいのかもしれない。

 

2年前の24時間テレビの頃だったか、羽生結弦はかつてのコーチに「つらいことたくさんあったね。今も・・・」と声をかけられ、「はい・・・」と涙目で答えていた。

五輪二連覇しても泣けるほどつらいことがあるのか、と切なくなった。いや二連覇したからこそ感じる苦しみなのかもしれないが。

二連覇直後は「幸せを掴みました」と言えても、そこで人生が完結するわけではないことはチャンピオンにとっても同じこと。五輪で金メダルを獲っても未来永劫の幸せが保証されるわけではないのだと、その時の羽生の様子から私は確信した。

 

アメリカの体操女王であるシモーネ・バイルズ選手はメンタルがやられ、東京五輪団体戦を途中棄権し、個人総合も出場しないと発表したそうである。彼女はもう強いことを十分証明してきたし、「五輪だけが人生じゃない」とも言っていたのでそれでいいなと思う。本当に大切なのは心と体が健康であることなのだから。

(羽生もかつて「週刊誌の問題とかで何度も死のうとした」と告白したことがある。世界規模で注目される人間はメンタルが崩壊することがあるのだ。王者たちがそこまで追い込まれてもなお五輪の頂点にこだわる人がいるほどの価値って何だろう?)

 

世界の頂点を目指したこともない普通の人間である私にとっては、羽生の偉業を称えると同時に、五輪を特別視しない、重要視しないネイサンや宇野昌磨にも少し寄り添ってしまう今日この頃である。

(ただし、ネイサンも宇野も世界トップのアスリートなので、自分にはたくさんのファンの期待とスポンサーのお金が注ぎ込まれていることはやはり現段階ではもっと自覚するべきなのでは?とも思う。もうしばらく五輪狂想曲は続くと思うので、「金メダルを獲る!」という意気込みで臨んだ方が多くの人が納得するような気がする)

 

 

話は逸れるが、ネイサンがLGBTQ+に関する差別的発言をした件について。

彼を擁護するわけではないが、小さい頃から中国移民の子として、そして現在はフェミニンなスポーツという認識のフィギュアスケートをする男性アスリートとして(散々差別的な扱いをされてきたと想像できるので)、「もうこれ以上差別的な目で見られたくない!」と思ったのだとしたら、「自分はストレートだ。フィギュアは女性的なスポーツとしての人気だけでなく、一般人気を得るためにもっとカジュアルなジャンルの曲や踊りを取り入れるべき」とアメリカのマッチョイズムに迎合するような発言が出てしまってもしかたがないなと思う部分がある。あんないかにも北米人の髭面のオッサンたちに「なんでアイスホッケーをしないの?」などと面と向かって訊かれたら、「ゲイを疑われるような発言は絶対に避けなければならない。そんなことを言った日にはまたどんな差別を受けるかわかったもんじゃない!」とネイサンが思ったとしても不思議ではない。「フィギュアは個性を自由に発揮できる美しいスポーツなんです。そこが好きなんです。(僕は男性らしくあろうと衣装もプログラムも簡素だから人気がないですけど)」などと中途半端なことは怖くて言えなかっただろうと勝手に想像する。

(ある意味マイノリティとしてアメリカで生きている)ネイサンには本当に同情してしまう部分がけっこうあるなと実は思っていて、自分の人生観に合わないんだったらフィギュア辞めてもいいんだよとさえ思う時があるのだ。