あなたに飼われる猫になりたい

大きな声では言えない日常の本音を書きたいと思います。

頭がおかしくなりそう。

いや、もうすでにだいぶおかしいのかもしれない。

 

私はフィギュアスケートが好きでよく見る。

 

ファンのブログもよく読む。

情報が充実しているブログ、

プログラムをじっくり解説しているブログ、

スケーターの美しさに萌えているブログ、

いろいろあって毎日読んでも飽きないし、楽しい。

 

・・・正確に言うと、

楽しかった。

(過去形)

 

昨年の全日本選手権の前後に、

「コロナなのに観客を入れてやるのか?」

「無観客でやるべき!」

「中止でもいいのに!」

PCR検査は何回やるのだ?」

など厳しい意見が噴出していた。

中には開催地の長野県医師会に問い合わせをしたファンもいた。

 

完全なる部外者のファンが何をしているのかと思った。

「若いスケーターが感染したら後遺症に苦しめられるかもしれないから」

ともっともらしい理由を述べている人もいたが、

その人は他の試合やアイスショーにも同様の抗議をしたのだろうか?

 

昨年の世界選手権の前も「中止すべき」とか、

夏のISU Awardsのときも「そんな賞はいらない。意味ない」などとかなり騒いでいるファンがいた。

 

「採点がおかしい」

「変な記事が出た」

「あの人があんなことを言っていた」

と、何から何まで文句を言い、抗議をし、

「選手のため」と言ってはぎゃーぎゃー喚き散らしている。

 

それが本当に選手のためになっているのだろうか?

私には単なるモンペにしか見えない。

いくら若いからと言っても、

選手たちには親もコーチもいるのだから、

ファンが守ってやらなければならないことなど何もないのではないか?

あるいは困難なことや理不尽なことに襲われても自分の力で乗り越える経験は今の彼らには多少は必要だと思う。

そうしなければ、これから先の長く険しい人生など生きていけないだろうと思うから。

 

橋本聖子氏の昔のセクハラ疑惑についても今かなり騒いでいるが、

それはもう済んだこと、どーでもいいではないか?

 

とまでは言わないが、

いつまでもそのことに拘っていて、

選手側が完全なる被害者だとファンが叫んだところで何になると言うのだろう?

誰の得になるのか?

 

ブログをやっている人の中にはファンを名乗ってはいるものの、

刺激的な記事を書いて読者を煽りたいだけの人もいるだろうし、

アクセスを伸ばしてアフィリエイトで稼ぎたいだけの人もいるように見えるし、

自分の書くことに大勢のファンが右往左往する様を内心バカにして面白がっている人もいるのではないかと思ってしまう。

 

そういうことをわかっていながら今まではそういうブログを読むのが楽しかった私も大概だが、

ああいうブログが選手たちの目に触れたらどう思われるだろう?と心配になる。

フィギュアスケートのファンは中高年の女性が多いが、

自分の親よりも年齢の高い人たちが毎日「あーでもない。こーでもない」とネットの中で侃々諤々している様子はさぞかし気味の悪いものではないかと思うのだ。

 

今はもうそういうブログ界隈が気持ち悪くなってしまって、

今年になってから苦しくてしょうがない。

(限界値を超えてアレルギー症状が出た、みたいな感じ)

 

 

こんなことを書いている私こそが気持ちの悪いオバハンなのだろうという自覚はあるので、今日はここまでにしておく。

 

15年くらい記憶がない!

・・・というわけでもないが、

2000年から2015年くらいまでの間のことがうまく思い出せない。

 

人はあまりにも過酷な日々を過ごすと記憶障害に陥ると聞いたことがあるが、

もしそれが本当なら、確かに私はその時期とても辛く苦しい毎日を送っていたのだ。

仕事ではお客さまからのクレームに怯え、

仕事仲間の“そこにいない同僚”への中傷に嫌気がさし、

プライベートでは夫が単身赴任中でなんとなくリズムの悪い生活が続き、

とにかく精神状態が不安定だった。

 

・・・と思う。

もはやそれさえもあまり思い出せないような日々。

そして約7年前のある朝突然、

心臓が苦しくて体が動かなくなって、

それ以来会社に行けなくなり休職→退職→引きこもり→今に至る。

 

逆に今、常に思い出すのは30年くらい前の記憶。

その頃も仕事は忙しかったし、

お金もそんなに稼いでいなかったから贅沢も出来なかったし、

恋のトラブルもいくつかはあったけれど、

それでも今となってはなぜか楽しかった思い出として私の記憶の中に残っている。

とても不思議な感覚。

 

20代という若い時期の経験だったからだろうか?

同じ経験を40代とか50代とかでしたら、

もしかしたらそれはただただツライだけの記憶になって思い出すことが出来なくなっていたのだろうか?

 

30年前、日本はバブル絶頂期で、

振り返ると変な時代だったけれど、

それなりに楽しかったんだなあと思う。

会社の忘年会がディスコ貸切で行われたり、

深夜まで残業をして(終電を逃して)タクシーで2万円かけて帰ったり、

親に嘘ついて彼とグアムへ行ったり。

 

品のない若者だったなとは思うが、

思い出せないくらいツライ毎日を送るよりよほどましだとは思う。

 

これから死ぬまでの20年とか30年、

私は死ぬときに「楽しかった」と思い出せるような日々を送れるだろうか?

50代も半ばになって、せめてこれからは穏やかに過ごしたいと思う。

 

夫婦別姓はいいと思う。

先日、真夜中に『ETV特集 夫婦別姓・“結婚”できないふたりの取材日記』という番組を見た。

(厳密には、たまたまチャンネルを合わせた終わりがけの20分くらいを見ただけだが)

 

(私が見た部分の)番組の中で、事情があって相手の姓になりたくない事実婚状態の若いカップルが、亀井静香氏(84歳・元金融相)に「なぜ日本では夫婦別姓が認められないのか?」と訊いていた。

 

亀井氏は「身も心もひとつになりたいなら姓も一緒にすればいい。国家の恩恵を受けたいなら国の決めたことに従わなきゃ。日本人はみんな天皇の子なんだから。別姓だと困るでしょ?」みたいなことを仰っていた。

 

・・・いや、それ答えになってないんじゃ?(論理的な説得力ゼロ)

 

亀井氏はこうも仰っていた。

「日本には1億人以上人間がいる。ひとりひとりのわがままに合わせていたら国家は困ってしまう」

「本当に愛していたら、あなたと同じ名前になりたいわ~となるはずだよ。あなたたちは身も心も相手に捧げてないんじゃないの?」(←だいたいこんな感じ)

 

・・・いや、話が通じないっつうか、日本語が通じないっつうか。

(こういう古臭くて頭の固いこと言うから、若い人から老害なんていわれちゃうんだよね)

 

うーん、真面目な話、夫婦別姓ダメなんだろうか?

戸籍とか、各種申請手続きとか、子供の姓とか、市区町村からのいろんなお便りとか混乱するのかな?

 

まあ、実務上どんな不都合があるのかは未知数だが、他の国では普通に出来ているのだから、日本だってやってやれないことはないとは思う。

 

 

この前、実家でお世話になっている業者さんからメールが来て、

「○○会社 △△(旧姓××)です」

と書いてあった。

その後電話で話す機会があり「ご結婚なさったんですか?」と恐る恐る訊いたら、

「あ、そうなんです~」とのこと。

 

なぜ恐る恐る訊いたかと言うと、「結婚」ではない理由で「旧姓」になることがあるからだ。

まあ、それは私のことなんだが。

 

私は若い頃、一度離婚を経験している。

仕事をしていたので、元々の姓で名刺を刷り直して、取引先の担当者さんに会うたびに「これからはこれで(ニコッ)」と手渡した。

若干の気まずい空気の中で(笑)

 

そういう経験があるので、そして今ではそんなことは日常茶飯事だろうと思うので、今回の「旧姓××さん」にも気を遣って訊いたのだ。

 

「結婚」及び「離婚」で姓が変わるのは圧倒的に女性の側だ。

姓が変わるに伴って、銀行口座の名義も、ネット上の各種アカウント登録も、カードも、免許証も、パスポートも、ぜーんぶ変更が必要になる。

 

人によっては仕事を辞めざるを得なかったり、夫の家族と同居なんて日には妻だけが引越しする羽目にもなる(羽目って言ったらあかんか)。

 

で、残念ながら離婚しなければならなくなったら、またこれら全ての手続きを全部やるのだ。女性だけ。

面倒なことになるのはたいていの場合女性側。

国の法律を決めているオジサンやオジイサンたちにはわからんだろーなー。

 

 

東京オリンピックの一連のゴタゴタを見てても、こういう構造が理解できない人たちが完全引退するまで、頭だけ女性にすげ替えても、なーんも変わらないんだろうなと暗い気持ちになる。

 

せめて「選択可能な夫婦別姓」くらい認めてくれてもいいのにと思う。

 

「男女平等」とか「多様性の時代」とか、うわべだけのお題目なんてもううんざりですよ。

他人だったらいい人なのに。

私の姉は夫の両親が大嫌いである。

 

義母は元美容師で、とても社交的で、

お料理も大好きで、着飾ることも大好きで、

海外旅行やカラオケや自宅での食事会など、

友人を誘っては賑やかに楽しい時間を過ごすことが大好きな人である。

 

何年か前からパーキンソン病を患っていて体が思うように動かなくなってからは、

姉を召使いのように扱って、

「あれを買って来て」だの、

「あれが食べたい」だのと、

何かにつけて(姉から見れば)わがままを言うようになった。

(そんな義母は今、特養に入っている)

 

義父は長兄の経営するゴルフ場の雇われ支配人をしていて、

今は独り暮らし。

こちらも義母に負けず劣らずわがまま(と姉は言う)。

今は塗り絵にはまっていて、かなり頻繁に姉に色鉛筆を買って来てくれと言うらしい。

 

ボケてはいないし、自分で食事もトイレもお風呂も出来るので何も手がかからず、

ケアマネさんに言わせれば「こんなにいい老人はいない」とのことだ。

 

が、姉には気に食わない。

自分の両親は文字通りの貧乏暇なしで、

50年以上一日も休みがないくらい働きづめで、

旅行はおろか、外食すらしたことがない。

母などは洋服にもアクセサリーにも何も贅沢はせず、

ひたすら地味に地道に生きてきた。

死んだときに母の通帳残高が2,700万円もあったのを見て、

私たち子供は「どうやってこんな大金を貯めたのか?私たちに少しでも財産を残したかったのか?」と不思議に思うのと同時に、

「私たちはこんなお金を残してもらうことより、ママが好きなものを買ったりして、もっと人生を楽しんで欲しかったのに」と泣いた。

 

私たちの父も趣味と言えることは何ひとつなく、

仕事一筋、「遊ぶ」「楽しむ」ということが「罪悪」でさえあると思っているような人間である。

 

私自身は、自分たちを「清貧」に縛りつけていた両親はある意味間違った生き方をしてきた人間とも思っているが、

姉にしたら「尊い生き方ゆえ損をしてきた」だけで、リスペクトされこそすれ、

義理両親より不幸な人間であっていいはずがないと思っている。

 

自分の両親と義理の両親をそんな風に比較して、

姉は「うちの両親ほどは苦労をしていない義理の両親が幸せそうに生きているのはおかしい。その上私のことを召使いのように扱う。許せない。長男の嫁がここまで虐げられるなんて時代錯誤もいいとこ!」と本気で怒っている。

 

ただこうも言う。

「義母も義父も、全くの赤の他人だったら普通にいい人だと思う。それなりに苦労もしたはずだし、その中でしっかり子育てをして、仕事もして、余暇を楽しんで、他人だったらいい人だったのに」と。

 

本当にその通りだなと思う。

なまじ夫の親だと思うから腹が立つ。

長男と結婚したことで、自分の実家より義理両親を常に優先させなければいけないかのようにあちらの家族から言われ続け、

義理姉(小姑)たちからも「長男の嫁が親の面倒を見るのは当然。私たちは嫁に出てしまったから遠慮しているのよ」と聞こえよがしに言われ続け、

そんな扱いを受けたら憎く思うのも無理はない。

 

 

(いきなり話が飛躍するが)

会議で自己主張する(話が長い?)女性も、

男女平等に気を遣い過ぎて育休など取って左遷される男性も、

世間は多様性を受け入れるべきと言ってカミングアウトする人々も、

他人だったら全くOK!

でも、もしこれが自分の親や配偶者や息子や娘のこととなると俄然イヤな気持ちになる(かもしれない)。

 

それが人情というものなんだろうなとは思うが。

 

 

 

断捨離、怖い。

たまに見かける番組で、

BS朝日の『ウチ、“断捨離”しました!』

というのがある。

 

毎週月曜よる8:00から放送しているらしいが、

チャンネルを変えている途中にちょっと見て、すぐにやめてしまう。

見ているだけでツライのだ。

 

片付けが大変苦手なご家族に密着して、

断捨離の達人・やましたひでこ先生が丁寧に指導し、

みるみる部屋が片付いて行く様子を紹介するシンプルな内容だが、

片付いていない部屋を見るのは、自分のことのようで苦しいし、

どんどん“要らないモノ”のゴミ袋に投げ込まれて行く、

もしかしたら思い出の詰まっているかもしれないモノたちを見るのもツライ。

 

私は録画して一度見たドラマや映画などもなかなか消せないほど、

何かを捨てるのが怖い。

「あぁ、あの時捨てなければよかった」

「あぁ、あの番組消さなきゃよかった」

と後悔したことが一度や二度ではないからだ。

 

私は自分のことをものすごく執着心が強い人間だとは思っていないが、

自分にとって思い出、思い入れのあるものはなかなか捨てられない。

 

もしかしたらたいていの人はそうなのかもしれない。

「片付けられない」のではなく、

「思い出を捨てられない」だけなのではないか、と思う。

 

少し前に姉が、小学校の時に見ていた『ケーキとクッキー』のレシピ本を捨てた。

すごく古かったし、小麦粉やバターで汚れていたし、

お菓子作りなどもうこの先しないだろうし、

したくなったら新しく買えばいいし、と思ったそうだ。

 

しかし、捨てた後に姉は気が付いた。

あれは単なるレシピ本ではなく、

自分の子供の頃の思い出そのものだと。

昔のアルバムを無造作に捨てるのと同じようなことをしてしまった気がして、

捨てたことを思い出すたび激しく後悔しているそうだ。

 

けれど、それこそが断捨離なのだろう。

「思い出」や「思い入れ」への「執着」を手放すこと。

そうして心を強く、そして軽くすることで人生が好転して行くのかもしれないから。

 

いや、でも私はそんな喪失感には耐えられそうにないので、

たぶんまだまだ生きているうちには本格的な断捨離はできないだろう。

 

捨てた後の激しい後悔。

そんな気持ちはもう味わいたくない。

捨てた後、うじうじし続ける苦しい時間。

・・・・・怖い。

生きてるだけで大迷惑。

明石家さんまさんの座右の銘?か何かの言葉で、

 

【生きてるだけで丸儲け】

 

というのがある。

 

私はずっとこの言葉が引っかかっている。

一体、生きてるだけで丸儲けとはどういう意味なのだろう?と。

 

どんなに辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、

生きてるだけで、命があるだけで、この世に存在しているだけで、

幸せなことだよ、感謝すべきことだよ、

そういう意味なのだろうか?

 

どんなに辛く悲しいことばかりな人生でも、

幸せなことだと?

 

いじめられても?

貧しくても?

全くモテなくても?

病気や怪我で寝たきりでも?

 

それでもこの世に存在しているだけで幸せだと?

 

だいたい【丸儲け】という、何か大きな金銭的価値に置き換えた表現がピンとこない。

生きてるだけではお金は出て行く一方だ。

働かなくては明日食べるパンも買えない。

 

「あなたは何もしなくても生きてるだけでいいの。そこにいてくれさえすればいい。お金は私が稼いでくるから心配しないで、微笑んでいて」

という天国のような世界がこの世にあるというのか?

 

私は現在仕事をしていない。

100%、夫の収入に頼って生きている。

うつ病を経て、今はパニック障害的な状態で、

家事もろくに出来ない。

 

【生きてるだけで損害

とまでは言わないが、

もしかしたら夫は「料理くらいはして欲しい」と思っているかもしれない。

 

ただ毎日テレビやネットを見て過ごす、

そんな私のことを「何の役にも立たない生き物」と思っているかもしれない。

 

それは私の一方的な被害妄想かもしれないが、

私自身は【生きてるだけで大迷惑】をかけているなと思って、

心苦しい毎日を過ごしている。

 

お料理だって、仕事だって、

出来るならやってる。

 

けど、出来ないのだからしかたない。

死ぬことも出来ない。

夫が高い金出して買ったこのマンションで自殺などしようものなら、

それこそ大迷惑な話だ。

 

生きててすみません、と毎日思う。

【生きてるだけで丸儲け】なんて考え私には、ない。

 

 

いや、こんな言い訳をグダグダ書きなぐって、

それでも生きていられることこそが【丸儲け】なのか?

 

答えはわからないが、養ってくれている夫には本当に申し訳ないと思っているのだ。

 

ラブホテル今昔物語

私は時々散歩をする。

散歩をしながら今と昔の街の変化を発見するのが好きだ。

 

私が住んでいる街の駅周辺にはいくつもラブホテルがある。

かつては最先端の憩いの場だったそれらラブホテルは、

今ではただただ寂れた雰囲気を漂わせている古ぼけた建築物になってしまっている。

こんな「解体待ったなし」に見えるホテルに誰がエッチをしに行くのだろう?と不思議に思うほどである。

 

平日の昼間など人通りが少ない時間帯には、

私は勇気を出して(好奇心が抑えきれず)ラブホのフロントを覗くことがある。

そして意外にもそんなおんぼろホテルがいずれも満室に近い状態であることにしばしば驚くのである。

 

一体誰が・・・?

 

まあ、どんな人が入室しているかはわかるはずもないが、

意外に今でもそこそこ需要はあるようだ。

(不倫中のビジネスマンがこっそり利用しているのか?あるいは女子会の会場となっているのか?)

 

けれどこれは私の勝手な想像であるが、今どきの若い恋人たちはあまりそういうホテルを愛の行為に利用はしていないような気がする。

 

私がまだ20代だった頃は、次々と新しいラブホテルが建設され、

「あそこはプールがあるらしい」

「あっちはアメニティもルームサービスも超豪華だよ」

「今度できたあのホテルにはカラオケもゲームもマッサージチェアも最新機種があるんだって」

と、新たな情報を入手しては週末ごとに利用させてもらっていた。

 

しかし私たちより下の世代の人たちは、

だんだん男女のセックスに興味がなくなりつつあるというニュースを目にすることが多くなり、

実際に晩婚化、非婚化が進み、それにつれてラブホテル業界も衰退の一途を辿って行ったような気がする。

その証拠にここ何年も、もう新しいラブホテルを私は見かけていない。

 

 

余談だが、10年ほど前、驚愕の光景を目にしたことがある。

初老の男性が運転する車の後部座席に、どう見ても70代以上の老婆が座っており、

その車はラブホテルのあのビニールカーテンの中へするすると入って行ったのである。

 

あの男女はなぜ前後にわかれて座っていたのか?

夫婦や恋人同士でなかったのは確かだろう。

ではどういう関係だったのか?

ある種の売春?

いや、考えるのはよそう。

何かしらの事情があったのだろう。

 

事情と言えば、ラブホテルのフロント係や部屋の掃除を仕事にしている人たちは、

どんな素性の、どういう事情のある人たちなのだろう?

給料はいいのだろうか?

家族はいるのだろうか?

興味深い。

(失礼な言い方に聞こえたらすみません)

 

海外には、こうしたいわゆるラブホテルはないと聞いたことがある。

恋人たちは親のいない時を見計らって自分の部屋で事をいたすらしい。

ロンドンでは場末の小さなビジネスホテルっぽいところのいくつかの部屋を【休憩】用に提供していた(実際に私は利用したことがある)。

パリでは“オテルダムール Hotel d'Amour はどこにあるんだろうね?”などと言って、日本人留学生同士で笑い話にしていたことがある。

 

若者が恋愛にもう興味を持たないとか、生涯独身率がどんどん加速するとか、

いつか本当に人々は“子供を本気でつくる”以外に愛を交わさなくなる日が来るかもしれない。

 

「ラブホテルって何?」という時代もそう遠くない未来にあるかもしれないな、と思いながら今日も散歩をして来た。